三献茶

秀吉が近江長浜城主だった頃、鷹狩途中に在る寺を訪れた。

「羽柴筑前じゃ、茶を所望致したい」

後頭部が突き出た少年が持ってきた大きな茶碗には、ぬるめの茶がはいっていた。鷹狩で喉が渇ききっていたので、秀吉は一気に飲みきった。

小気味よし!さらに一服所望じゃ」

二杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分くらいであった。秀吉はそれを飲み干し、もう一服を命じた。

三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど熱く量はほんの僅かであった。秀吉はこの少年の気配りに感心して長浜城へ連れ帰ったと云う。

この後頭部が突き出た心利いたる少年が幼名佐吉、ついで三也と称し後年に石田治部少輔三成となるのである。                                

                                         
【武将感状記】より 

ただしこれは、後世に創作された話という説もあります。真実はどうなんでしょう。

小和田哲男氏は、『石田三成 「知の参謀」 の実像』 で創作の可能性に言及しつつも
こうしたエピソードが、意外と事実を伝えている として出会いの時期と 「在る寺」 の所在について考察しています。

時は、天正二年、秀吉39歳、三成15歳のとき。場所は近江の国(滋賀県)にある観音寺、秀吉が、鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望したところ、三成の心配りから才気を見抜いたというのである。
もっともその当時、「観音寺の周辺が政所茶の大産地であった事や、また後に秀吉が生涯、政所茶を愛したと言われた事からも実話であったと謂われている。
■ブックデータ

書名●石田三成 「知の参謀」の実像                  
著者●小和田哲男
出版社●PHP研究所
発行年●1997年
判型●新書
概要●カバー見返し「内容紹介」より                      
              石田治部少輔三成
      
豊臣政権の官房長官というべき地位にあって、秀吉の右腕として辣腕をふるった三成。本来、名官房長官として歴史に書き記されるべき三成が、いつ、なぜ、どのようにして「姦臣」に仕立て上げられてしまったのか。千利休切腹事件、豊臣秀次失脚事件、蒲生氏郷毒殺説など、これら三成の策謀といわれる事件の真相を、丹念な史料の再検証から究明するとともに、戦下手の三成を重用した背景から、平和の時代の参謀像にもせまる力作評伝。                       


石田三成 (1560〜1600)
佐吉、三也、従五位下治部少輔、従四位侍従


近江坂田郡の土豪、石田正継の子。
秀吉にその才を買われ近従となり、秀吉亡き後は同郷出身の淀君に重用され、豊臣家の中心的人物として実権を握る。
しかし同じく豊臣家の中核であった福島正則、加藤清正ら、いわゆる武断派の武将達と悉く馬が合わず、大阪を追われ近江佐和山へ逃れる。
その後、会津征伐に乗り出した徳川家康に対抗し挙兵。
西軍の実質的な総大将として関ヶ原で争うも、相次ぐ離反者を出し敗北。
京都六条河原で斬首された。
享年四十歳。



十四歳頃、初めて秀吉と会った三成が、茶を所望する秀吉にまずぬるめの薄い茶を大きな茶碗に八分目ほど、次にはやや熱めで濃いめを茶碗に半分、三杯目には熱く濃い茶を小さな茶碗で出して秀吉の感心を買ったというのは、『武将感状記』中にある有名なエピソード。

また、関ヶ原敗戦後捕らえられ六条河原へ送られる際、喉の渇きを訴えた三成に警護の者が干し柿を与えると、『干し柿は痰の毒だ』といって断ったという。
これから斬首される者が身体の心配も無かろうにと嗤う警護の者に三成は、『大義を志す者は死に際まで本意を達しようとするものだ』と言い放ったという話も伝えられている。

さらには、自分の知行の半分近くを与えて名将・島左近を登用した話も有名。
それは当時『三成に 過ぎたるものがふたつあり 島の左近に佐和山の城』と謳われたという。



とにかく細やかな人間だったようで、それが当時の剛胆な武将達には小賢しく映ったのだろう。
また、秀吉から格別な重用を受けたことも周りの者達には面白くなかったようだ。

まさに、叩き上げに嫌われるエリート官僚の典型といったところだろうか。

島左近をはじめ大谷吉継や小西行長ら、身を賭して関ヶ原を戦ってくれた武将も少数ながら存在したものの、結局はその『嫌われ者』っぷりが、天下分け目の戦国最大の合戦を、わずか数時間で終わらせる最大の要因となってしまったようだ。


                                               【青猫日報】より
石田三成/大一大万大吉      石田治部少輔三成